私は何も悪くなかった

その日はいつものようにワークをしていました。
苦しい気持ちに飲み込まれたりしながらも、 なるべく程よい距離感で観察して、そうして、その感情をそのまま受け入れる。
そんな事を繰り返していました。

受け入れる作業よりも、飲み込まれていた時間が多かったからなのか疲れてきて
しばらくの間ボーッとしていたのですけど
そうしたら突然、「私は何も悪くないんだ」という言葉が意識に上がってきました。
いきなり現れたその言葉を捉えた瞬間に、ハッとして我に返ったというか、妙にしっくりときて

「そうだよね、私何も悪くないじゃん」と、なんだか呆気に取られ
いきなり心が晴れたことに自分でもビックリして、思わず笑ってしまうぐらい。

「な〜んだ、私は何も悪くないんだ」
「ビックリするぐらいに、私は何も悪くない。」
「そうだよね、ただ生まれてきただけなのだから」

なんの曇りもなく、その言葉がそのまま自分の中にある事が嬉しくて
そう思えば思うほど、本当に清々しくて
これまでいかに自分自身を悪者にしていたのかを思い知った瞬間でした。

 

ここ最近は、「私が生まれてきたことは喜ばしいことではなかった」という
幼少期に感じていたらしい、愛されていないという見覚えのない記憶が
感情を通して四方八方から私を攻撃していました。
(攻撃という言葉を使ったけれど、もちろんそれは攻撃ではなくて
簡単にいうと、それは体に起こっている反応であって、向き合うチャンスということ。
そうは分かっていても、その気持ちを感じることはやっぱり苦しかった。)

その想いを「生まれてきた私が悪いのだ」と変換してしまったのか
あるいは、モラハラだった父親の日常的な不機嫌を自分のせいにしてしまい「私が悪い」としたのかもしれない。

いずれにしても、私の日常の全てにおいて
もっというと私が創り出す想像の中にさえも 「私が悪い」という想いが常に大前提であったのです。

具体的に、「私が悪い」という思い込みがあるとはどういうことなのかというと

例えば、社内で何かトラブルがあった時に
身に覚えのないことでも、自分のせいかもしれないと思ったり

不機嫌な人を見ると反射的に
自分が何か怒らせるようなことをしてしまったのかもしれないと思ったり

何かが起こると(起こっていなくても)
「私が悪い」という可能性を自分の中に見出してしまうのです。

あの日、「私は悪くないんだ」という事実を理解してからは
ほとんど毎朝、そのことを考えてから一日のスタートを切り、爽快な日々を送っています。

「私は何も悪くないんだ」という事実が、こんなにも嬉しくて
天地がひっくり返るとはこういう事なのだなと思うぐらい、私の基本設定が変わり
そうして、その嬉しさを感じれば感じるほどに
「私が悪い」という想いが、無意識のうちに私の基本設定となっていたのだなと実感しています。

普段から自己内省をしているので、「私が悪い」という思い込みを持っていることは、わかってはいたのですけど
ものすごく自然に、こんなにも自分に馴染んでしまっていたとは理解できていなかったようです。

空気となって馴染んでしまった思い込みは、認識するのは難しいのだけど
個体となり反応として現れる思い込みをつかまえて、向き合っていくことで
誰にでも、その思い込みを溶かすことは可能なのです。

 

無意識の私は、生きている事に追い目があって、生まれてきた自分が悪いと思い込んでいたのだけど
「私が悪い」という大前提が剥がれ落ちたことで、私は何も悪くなくなった。

とは言っても、まだまだ向き合うことは沢山あって、途方に暮れてしまいそうになることもあるのだけど
こうして向き合うことを選択し続けていくことで
こんなふうに自分の中にある無意識を知ったり、手放せた時のあの心地よさも喜びも感じることができる。

今はそれで十分なのかもしれないなと、そんなふうに思ったのでした。

 

これは先月の写真。
最近はすっかり春めいていて、それはそれで嬉しいのだけど、雪が恋しいなとすでに思ってしまっている私です。

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