言葉が好きという事に気づいてからの私は、
本を読んでいても、音楽を聞いても何をしていても
どうしても言葉に目がいくようになり
素敵な言葉を目にする度に
大きな大きな喜びを感じています。
(好きな気持ちに気づいた記事はこちらからご覧になってください)
というより、どうして今まで気付かなかったのか不思議に思うぐらい
本当はいつもいつも言葉に癒されていたのですよね。
最近読んだ本の中に書いてあった言葉。
昔の人は「悲し」「哀し」とだけではなく
「愛し」、または「美し」と書いても「かなし」と読んだ。「かなしみ」という言葉の底では
悲と愛と美が分かちがたく結びついている。
どうしてこんなに素敵な表現ができるのだろうと、ため息をつきながら
この言葉にとても納得し、共感しておりました。
私はクライアントさんに
「その悲しい気持ちは"愛されたい"の裏返しですよ」とお伝えすることがあります。
特に親子関係ではそうですが
「悲しい」という気持ちの奥には
「愛されたい」「愛してほしい」という気持ちが隠れている事が多いからです。
じゃあどうしてそんなふうに思うのかというと
両親のことを「愛している」からなのですよね。
私たちは生まれた瞬間から、無条件に両親を愛しているし
無条件に両親から愛されたいのです。
好きな人に好きになってもらいたいのと同じで
両親を愛しているから、両親に愛されたいのです。
幼い頃、"愛されたい"という気持ちが叶わないと感じた時
その絶望から自分自身を守るために
愛されたかったと感じた気持ちを
全く別の感情に形を変えてしまったりするのですけど
それは内省して本当の自分の気持ちを見てみると良く分かります。
「悲しい」「寂しい」「苦しい」「怒り」などの気持ちの奥には
必ず「愛」が潜んているということが。
「認めてほしい」だって愛だし
「見てほしい」だって愛だし
「甘えたい」だって愛です。
そんなふうに、
幼い頃の純粋な想いは、時に何度も形を変えるので
その気持ちが層となって一体化してしまい、本当の気持ちが見えなくってしまうのです。
人間関係のほとんどに親子関係を投影しますから
親子間でつくられた思い込みが
今のあなたの人間関係に多くの影響を与えているという事が分かると思います。
そう考えると、心って面白いですよね。
実態のないものだし、そもそも形なんてないけど
だけど確かにそれぞれの中で、思い込みやパターンとして象っていて
誰かと同じものを見ていたとしても
それぞれにフィルターがかかっているので、人によって見えてくる色が全く違うのですから。
恋愛にも親子関係を投影するので
好きな気持ちが強いほど、なぜか不安になったりするのも
全く不思議なことではありませんね^^
そして、音楽で考えてみても同じ事が言えると思います。
意識には上がっていないかもしれませんが
「悲しい曲」「悲しい歌詞」を、無意識に美しいと感じている方は多くて
なので悲しい歌が多くの方の心を掴むのもなんとなく理解できる気がします。
「悲しい」は「愛」。
「悲しい」は「美」。
「悲しい」の中に愛を見て
「悲しい」の中に美しさを見ているのですから
私たちが無意識に自己憐憫に浸りたがるのも、仕方のないことなのかもしれません。
悲しい気持ちに浸ることを良し悪しで判断する必要はありませんが
例えば、知らず知らずのうちにに自己憐憫に浸っている方というのは
その感覚に浸ることにより、無意識の中で
とっても甘くて美味しい蜜を吸っているということになるのです。
だからなかなか抜け出せない。
可哀想な自分、悲しい自分である事で、無意識もとでは何かを得ているのです。
だけどそんな可哀想な自分を手放す事ができると、多くのことを得られるようになります。
(主に自律に関すること)
まずは、決断する事。
そして、意識的になる事。
自己憐憫にしてもそうですけど
視点を変えて現状を見る事ができるようになってくると
意識に上がっていない本当の気持ちを知る事ができるようになってきて
今まで見えなかった事が見えるようになってきます。
そうすると、自分の気持ちに寄り添う事ができるようになるし
今よりも自分のことを好きになれたりするのですよ^^
こんなふうに内省を深めたい方は、ぜひ個人セッションにいらしてくださいね^^
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セッションをご希望の方は、こちらからお問い合わせください^^
黒蜜ラテ。とても美味しかったです。
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