心を観る目

 

思い込みに支配されると、見る目ばかりが肥えていく。
思い込みを手放せるようになると、観る目が肥えていく。

 

この言葉の意味、なんとなく分かりますか?^^

 

 

簡単にいうと、見る目と、観る目との違いなのですけど。

 

『思い込みに支配されていると、見る目が肥えてしまう」というのは
思い込みを持っていると、表面的なところに目が行くようになってしまいますよ、という事で
つまり、自分の身体の外側に意識が向くのですよ、という事です。

誰かや何かに物凄く反応してしまったり
何かを言いたくなったり、自分を正当化したくなったりとか
相手をジャッジし、自分をもジャッジし
外側にある色々なことが、あなたを苦しめているように感じてしまうのです。

 

そして、その苦しさの正体に気づくことが出来ずに
その苦しさを紛らわすように、更にジャッジが強くなってしまって
他人を見て、自分を見て、とにかく判断したくなってしまうのです。

それが、見る目が肥えてしまうということ。

 

一方で、『思い込みを手放せるようになると、観る目が肥えていく』というのは
思い込みを手放すことが出来るようになってくると、内面を感じられるようになり
身体の内側に意識を向けられるようになってくるのですよ。という事で
より自分の心が観えるようになり、自分を知ることが出来てきますよ、という事です^^

これが、観る目が肥えるということ。

 

こうやって説明してみると、
見る目が肥えてしまうのは良くない事と思われてしまうかもしれませんが
考えようによってはそんな事もないと私は思っていて。

 

どういう事かと言いますと

思い込みに支配されると、見る目が肥えてしまう。

というのと

思い込みを手放せるようになると、観る目が肥える。

というのは、対極な考えではなくて
ある意味、自分と向き合うためのステップでもあるなって思うのです。

 

思い込みに支配されて、見る目が肥えてしまった分だけ
思い込みを手放して、観る目を養えるようになるのですから。

ただ、そのステップを踏むために必要なことがあって
それは「気づくこと」なのですけど、これがとても重要でして。

つまり、ジャッジしている事に気づくことが出来なければ
そのループから抜け出すのは難しいのですけど
たとえジャッジしてしまったとしても
ジャッジしている自分に気づくことが出来れば 、その先へ進めますし

もっと言うと
外側を見て、自分の内側を観れるようになると言う事なので、内省は深まりますし
ジャッジしてしまった事を、自分と向き合うためのヒントとして考えられるようになり
それを繰り返していく事で、結果的に見る目よりも、観る目が養われていくのですよ^^

そう考えることが出来るようになってくると
目の前の状況全てが、自分の成長のヒントになりますね^^
(私も心得て前進したいと思います^^)

 


去年閉店してしまった珈琲屋さん。

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