自分探しのような自分隠し

 

年末ぐらいに、精神世界について考える機会がありました。
私は精神世界というものに対して
どんな軸を持っているのか、ということについて。

 

私の中には確かに、「これは好きで、これは苦手」というような
そういう感覚的な、何か軸となるものがある事はわかるんですけど
だけど、それをハッキリと自分の言葉にすることが今だに出来ていません。

 

なんですけど、なんとなく最近ふと思ったことがあったので
また時間が経ったときに、今の自分の気持ちと答え合わせが出来るように
ここに残しておこうかなって思います。

 

 

 

私が無意識に目で追ってしまうようなものや
とても素敵だなって思う本、
今学ばせて頂いている場所にしてもそうなんですけど
私が最近、とても関心が向く事やものは「無色」だなって思ったんです。

 

私は「無色のもの」が好き。
これは、精神世界に関しても同じだなって思いました。

 

最近よく見かける
「悟り」や「覚醒」、「与える」や「愛」や「感謝」など
こういった言葉は特にそうだなって思います。

 

例えば、『悟り』や『覚醒』とかそういう言葉は
昔々は、とても神聖で尊くて、だからとても特別で
だけど、いつもそこにあって、だから本当は身近で
当時のこういった言葉たちは
とっても清らかなエネルギーが乗ってたんじゃないかなって思うんです。
色なんてついてなくて、無色だったんじゃないかなって。

 

でも最近は、それらの言葉をあえて特別視させる為に
その言葉以上に、神聖で尊いものとして、特別を追い求めてしまうような
そういう必要のない色がその言葉のエネルギーにたくさん乗っているなって、そんなふうに思います。

 

私が好きな精神世界の本には、
今流行っていて特別視されているような事ほど
全く特別視せずに、「これらは無色ですよ」みたいな感じでただ淡々と書かれてある事が多いんです。

 

 

色を付けてしまうことって、とっても簡単なことなんだと思うんです。
誰にでもできてしまう。だから色々な精神世界の何かが流行っているなって思います。
流行りって、本質的なものの周りを
とっかえひっかえ回り続けているだけで、そこに答えはないんですよね。

 

私個人としては、無色になることほど難しいことはないと思っていて
だからこそ、私は無色を追い求めたいなって思っています。
(そういった意味では、私も結局、その言葉たちを特別視しているのかもしれません)

 

 

「自分探しのような自分隠し」

 

いつか読んだ本にこんなことが書いてあったのですけど
きっと、色がついている事にも気づけずにいると
探しているものが余計に遠のいてしまうんじゃないかなって思います。

 

私は1年ほど前に、この言葉を目にしたとき
まさに自分がそうなっているなってハッとして
それでこの言葉を心得ようって思ったんですけど

 

今はそういった事も学ばせて頂いているので
当時の私に比べると、
ありのままを捉えられるようにはなってきたなって思います^^

 

 

 

(期間限定のさくらパフェ。札幌はまだ桜が咲いています)

 

 

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