今日、アメブロを開いたら
「1年前の今日書いた記事です」みたいなお知らせ通知きて、その記事を読み返してみました。
読み返してみて、当時とは別の考えを持っているな、と感じたりもしましたが
「反面教師」に関することは、今も同じことを思っていて
もっと言うと、当時よりも深く理解できていると思います。
反面教師にする事で、親とは別の考えを身につけたり
自分の人生を歩む選択ができるようになる事もあると思いますので
割と良い意味で捉えられる事が多いと思いますが
「あの人のようにはならない」という想いは、ジャッジをしてるという事と同じなのです。
ジャッジからは、本当の自分の想いは生まれません。
そういったものを手放した先に
本当の自分らしい選択が出来るようになってくるのです。
例えば、両親と切り離した自分になりたくても
両親に対して反面教師を手放せていないうちは
本当の意味で、両親と自分を分離できていないという事で、執着している証拠かなって思います。
反面教師に限らず、日本人特有の美徳とされている事の中にも
ジャッジが付いてまわるような、必要のない思い込みがたくさんあるなって思ったり。
1年前の記事を読み返して見て、そんなことを思いました。
〜〜以下、1年前の記事の一部参照〜〜〜〜
気づかないところで、母をそのままコピーしていた事もあるし
母の何かを自分なりに変換し、そしてそれが正しいとか間違いだとか決めつけて
その事から自分なりに自分を創っていたこともあったり。
表面的にも内面的にも、親のことが根っこにある、無意識の習慣が私の中に潜んでいました。
凄く些細な事なのですけど、ある状況になると、毎回ある行動を取ろうとしてる自分がいて
どうしてこんな行動を取ろうとするのかな?ってここ数ヶ月なんとなく考えていた事があったのですが
それも母のコピーからの無意識の行動でした。
そして親をコピーしてしまう事と対照的なのが
親を反面教師にすることなのかなって思うのですが
私の中にも親を反面教師にしている事がいくつかありまして。
反面教師という言葉は、良い意味で変わる為には必要かもしれないけど
反面教師になっているうちは、本当の意味で親と自分を分離できていない、という事なのですね。
ある事で親を判断して良し悪しをつけ、親と真逆のとこや、全く別のことをしようとすることは
親ありきでのあなたの判断なので、それはあなた自身の習慣というよりは、
親のこころの習慣に反応したあなたのこころの習慣ということになると思うのです。
そのこころの反応が、結果的に行動に出たり、あるいは思考の癖となったり。
そして、感情の習慣までも親からの影響を受けてしまいます。
なので、それがあなたの表面では素敵な習慣になっていたとしても、
「親のようになりたくない」という気持ちが奥にあって、そこから繋がっているのなら
その習慣は手放してしまった方が良いかもしれません。
その気持ちを見つけてあげて、その心を解放してあげると
新たな想いに気付けるかもしれませんね^^
内側の自分(本来の自分)はまだ良く分からなくても、
表面には、親の言葉や感情、感覚やあり方などをコピーしている自分がいると理解したり
それとは逆に、親を否定しているからこそ創り上げた自分がいる事を意識できた時に
しっかりと私の中には本当の自分がいると感じられましたし、
私が内側だと感じていた事すら、実は外側だったという事も理解できました。
〜〜〜〜〜おしまい〜〜〜〜〜〜
こうやって振り返ってみると
1年前と想いは変わらないけど、ちゃんと広く深く理解できるようになっているなって
自分に対する理解も深まって、とても良い機会になりまいした^^
ジャッジは、本当にきりがないぐらい私たちと同調してしまっています。
なのでしっかりと意識してそれを見つけてあげることが大切で
そうやって気付けるようになってくると、本当に人生は変わっていくのですよ^^
小さな事の積み重ねが私たちを変えてくれるし
そうする事で、ちゃんと自分のものになっていきますし
自分のものになったそれらは、自分の人生においてとても大切なものとなります。
そんなことを改めて感じたのでした^^
崖の上のカフェ
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